2011年12月8日

東松島&女川。行ってきました。

「とびだす100通りのありがとう」ミュージカル取材・稽古のため被災地に行った両親に同行して宮城県東松島市と女川町に行ってきました。

 

人口比での犠牲者率が一番高かったという女川町。

建物が見事にというかなんというか、90度バタンと倒れていました。

町役場の仮設庁舎にお邪魔して町長さんと、サンマの漁師さんのお話を伺ったのですが、まあ驚くべきことに役場の庁舎がぴっかぴか!無くなったものを新しく建て直したのだから、新しくてぴかぴかなのは当たり前なんだけど、こんなに新しい役場も役所も見たことなかった。仮設庁舎には間仕切りもない、受け付けも申し訳程度でしかない。部署ごとの看板が釣り下がっているだけ。ちょっと待って冗談よしてくれって逃げ出したくなるくらい新しかった。まだ新しいにおいがする。全部流れたからなんだ。全部壊れたからなんだ。ゾッとした。あたらしいって、こわい。これが町役場って、うっそだろー。町役場って、古くて当たり前のものなのに、思考がついて行かない。

 

役場の手前の道には、瓦礫の山。洗濯機、洗面器、コンテナ、テーブル、畳。一度は家の中にあったものが泥をかぶって丸見えになっている。

全部流れる、っていうのは、本当に「全部」流れるんだなー、って思った。

女川は被害がひどかったから、家ごとまるまる全部流されて何もない「空き地」がたくさんあったんだけど、「何もない」から、「何があったか分からない」から「怖くない」。

だから、瓦礫とゴミの山を見たときの方が怖かった。

あ、あれ洗濯機、あ、あれ長靴、あ、あれはひしゃげてるけど畳だな、って。畳があるってことは、見えないけどそこらへんに障子とかふすまも転がってるだろうなあ、って思うほうがよっぽど怖かった。

家がまるっと全部流れた、って事実は後になってじわじわキタけど。

「なにもない」って、「なにもない」んだ。

日が暮れて、真っ暗な女川からの帰り道。

車の中でも目を伏せていた。見なきゃ。見に来たんだから。見なきゃ。ここで津波に遭った人がいる。私が目をそらしてはいけない。ううん、ダメだ無理だ、こわすぎる。

かろうじて立っている家がお化け屋敷に見えてしまう。

ううん、いくらお化け屋敷が嫌いで怖くて入った事がなくっても、絶対お化け屋敷の方がましだよあれは作りものだ。

いや違う、そもそもこの家はお化け屋敷なんかじゃなかったはずだ。

「ただいまー腹減ったーご飯なにー」って、帰って来てた人がいるんだ。

カーテンだけがゆらゆらはためく壊れた家。瓦がはがれた家。壁が大破して柱だけになった家。

私は自分の実家が大好きだ。本当に好きだ。オーストラリアから帰国するたびに、あー日本帰って来たーただいまーお風呂浸かりたいー和食食べたいーって思える、鮮やかな青色の家を誇らしく思っている。

女川町では、そういう家が、流れたんだ。生活が、なくなったんだ。

犠牲者数人口比一番、っていう数字の下には、ひとりひとりの、生活がある。

あの洗面器を使ってた人がいる。あの畳の上で正座をしていた人がいる。あの長靴をはいていた人がいる。

 

東松島市では、東松島高校の体育館でミュージカルの稽古。東松高にあるもうひとつの体育館は、震災直後に遺体安置所になったと参加者の方から聞いた。うわ、ちょっとやめてよそんな話。やめてよって問題じゃないよ事実なんだから、と、朝から一人二役で脳内会話、震えながら体育館へ。

 

稽古中の子供たちがかわいい。超かわいい。まじかわいい。あー、どこの子供も無条件で可愛いなあ、元気だなあ、子供って元気な生き物だーって、のんきに見てる場合じゃなかった。

この子たち、「死ななかった子」ちなんだってば。ここに来て歌ったり踊ったりしてる、3歳から82歳までの参加者の人たちは、みんな、生き延びたっていうか、「それ以前に」死ななかった人たちだ。「犠牲者」一歩前で「被災者」になった人たちだ。一歩間違えたら、私たちが日和山の上で黙って手を合わせた、「間に合わなかった」人たちに入るかもしれなかったんだ。そう思うと、こりゃもう、私が頑張らないっていう選択肢はないなあと思った。よし、気合入った!!

無数の横断幕。「がんばろう東松島」「まげねど女川」。

一個だけ見つけた、「やってらんねえ」。

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